コラム

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まちの記憶

時折、こんなことを聞くことがある。

『自然素材のものは<経年変化>をしていきます。<経年変化>とは、時間の経過とともに色や性質が変わっていくことですが、それは“劣化”ではなく、使い込むごとに味わい深い質感となり、ものに対する愛着が増していくことでもあります。それを可能にするのは、本物の素材であること、が大切ですが、使い手の手入れや使い方によってまた変わってきます。』

秋葉区は、昔からある自然=里山とまちが近距離で共存している。
自然素材で作られたものに<経年変化>による美しさがあるとしたら、
AKIHAの里山とまちは、同じく時間の流れとともに“劣化”とは真逆の流れをしてきたのではないかと思う。

まちには商店街がある。
昔から続く店が、昔からの看板を掲げて商売をする。
銀行も郵便局も、生活に関わることが凝縮した商店街。
大型ショッピングセンターの使い方と楽しさとは質の違う店が軒を連ねる。
それは一見古めかしさの中にあるけれど、それを<経年変化>の中で美しいものにしていくかどうかは、店主と住民の育て方にあるのかもしれない。

里山という人の手が入る自然の中に“まち”がある。
AKIHAの里山もまちも本物だからこそ、<経年変化>の中で愛着が持てる、味わい深い地になっている。

自然素材でできた“まち”には、人や動物や植物と等しく、細胞がある。
生き生きとした細胞は、すべてを記憶していく。

強く吹いた風も、川の氾濫も、大雪の日も、祭りの音も、電線の揺れも、子どもたちの笑い声も、電車の音も、人が生まれ死んでいくことも、すべて“まちの細胞”が記憶していく。

その記憶は、住む人の感性を豊かにし、まちに手を入れ育てていく愛着を生むことができる。ここに生まれ育ってよかった、と思うことも、AKIHAの地を愛する心も、すべて“まちの細胞”が何を記憶するかにかかってくる。

“まちの細胞”が記憶するのは、自然現象と人々の暮らし。

住んでいる人、住み始めた人、住んでいた人、それぞれの人々の幸福感の高さと、自然素材がゆえの経年変化とともに、AKIHAの地は、美しくなり深みを増していく。

使えば使い込むほどに味わい深い、使ってみるとその魅力がよくわかる。
秋葉区は本物の自然素材の道具のようなものだ。