コラム

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里山と子ども

秋葉公園を歩こうと、秋葉湖横の駐車場に車を停めて外へ出ると、近くの森から子ども達の元気な声が聴こえる。そこには、「Akiha森のようちえん」がある。自然環境全てが子どもたちが過ごす場。傾斜のある大地をそこに生える木々の間をくぐって走り降りてくる子、大きく揺られているハンモックのなかでゲラゲラ笑っている子、伸び伸びと木陰で歌を歌っている子。泥遊び、土いじり、水遊び。冬には雪遊び。毎日キャンプ、毎日が遠足のようなようちえん。格好も同じく。

子どもたちは、おもいっきり体を動かして、自然環境に対する感覚を養い、自然の中心にどんどん近づいていく。虫を見つけ、木肌の感触を知り、鳥が飛ぶ羽の音を知り、季節の色を覚え、火が熱いということや、危険なものごとについて学び、広い大地のうえで自分の呼吸の音を確認する。

それはきっと理解ではなく出会い。

成長の過程において、知らなかったことを“知る”ということ、“出会う”ということはとても大切だ。理解するということとは違う、“知る・出会う”ということはとても貴重な体験。もちろん、おとなにとっても。

そして、“知る・出会う”という体験は、できるだけ子どもの頃に多くできるとよりいい、ということはなんとなくわかる。

ゲームだって面白い。
大型商業施設だって楽しい。
部屋遊びだっていい。

自然のなかで遊ぶことだけが全てではないし、それだけがベストではない。
ただ、自然界とのふれあいは、冒険心を生み、人を強くしてくれる機会となり、“まずはやってみる”ということを大事なことだとおとなが認識できるきっかけともなるように思う。

「Akiha森のようちえん」と「まち」は近い。行ったり来たり、様々なものとのバランスを保てる環境にある。幼少期に、里山の環境とともに過ごし、感性と体力を養い、まちと里山を行き来することでたくさんの出会いを体験する。

同じく、秋葉山には「Akihaマウンテンプレーパーク」という子どもたちが自由に遊ぶことができる場所がある。火をおこしたり、走りまわって転んだり、ときには痛い思いをすること。自分の行動にはすべてに責任が伴ってくるということ。そういうことを小さな頃にたくさん体験する。森に行かなくても、日常のなかにありそうだけれど、意外とそういう場と機会は、求めていかないと無いのかもしれない。

人生のはじまりの時期=幼少期になにを体験するか。
どんな景色をみて、どんな匂いがする空気のなかで、どんなひとと過ごすか。
それを選ぶのは大人の役目。その選択肢のうちのひとつに「自然環境」があるとして、その環境を保ちよりよく作っていくのも大人の役目。里山は、子どもの世界を通して大人も学ぶ場ともなっている。

森のなかの土や風の匂いのなかで、子ども達の元気な笑い声に幸福感を感じながら思うことは、ここは、“人生のはじまりと終わりにいたい場所”ということ。